まだロシアがソ連と呼ばれていた頃の話である。


僕は旅行でウィーンのホテルに一人滞在していた。

真夜中に枕元の電話のけたたましいベルでたたき起こされた。

明日はロンドンに旅立つ予定であったが、電話の内容は、急用ができたので、日本に帰ってきて欲しいというものであった。

明日の朝のアエロフロート機でモスクワまで行き、JALに乗り継いで帰国すればいいと言う。
仕方がない。

その昔にもロンドンに行けなかったことがあり、どうやらロンドンは僕の鬼門かな、なんて思いながら再度眠りに就いた。


朝になってホテルを引き払い、早速ウィーンの空港に行った。

その旅行はぜいたくな旅で、ビジネス・クラスで席の予約を取ってあった。
往復とも乗る飛行機が確定しているから、格安の料金でチケットの手配ができたのだが、急遽変更してしまったので、正規料金を払うはめとなった。
ビジネス・クラスの場合、いくらでも好きな便に変更がきくのだ。

僕は、空港のカウンターで、急遽帰国しなければならなくなったことを告げ、電話で聞いていたアエロ・フロート機の予約をたのんだ。

するとカウンターの男性が、もっと早い便でオーストリア航空の便があるが、なぜそれにしないのか?と言う。
それならそっちでもいいと思い、オーストリア航空の便を予約してもらった。


当時は冷戦の真っ最中で、オーストリアという国は、西側でありながら、東側にもつながりのある、言うなれば東西の接点の役割をはたしていた。

多分ウィーンの町には、両陣営のスパイ達が大勢暗躍していたはずだ。

表の顔は「音楽の都ウィーン」で、日本からの旅行者にはピンとこない話であったが…。


僕は空港のロビーで飛行機を待っていた。

飛行機に乗るたくさんの乗客が集まっている。
その顔ぶれを見て驚いてしまった。

日本人はひとりもいなかったが、ロビーは、両手に山のようなお土産を持ったロシア人たちで溢れていた。

西側に買い物に行けるロシア人と言えば、かなり裕福な層であろうと思われるが、そこにいるのは、黒い毛皮のコートに包まれた太りかえった夫婦ばかりであった。

まるで映画の中の1シーンを見るような光景。

僕は、あれはてっきり東側をばかにしてハリウッドが作り上げたソ連のイメージだろうとばかり思っていた。

しかし、目の前の光景は、そのイメージそのものである。
なんだか垢抜けない人たちを前にして、映画の撮影中のような錯覚に陥った。

乗客達の中に、異質な雰囲気を発する人物が立っていた。

真っ黒な生地のコートを着て、青白い肌に金髪、目はぎょろりとしているが、死んだ魚のような生気のない無表情な顔の男。

どう見てもKGBだ。

僕は、シェーンの殺し屋ウィルソンを演じたジャック・パランスを思い出してしまった。

こりゃあえらいところにもぐりこんでしまった。
日本人の僕は、どう見ても「およびじゃない」という雰囲気だ。


それにしても彼らの服装は、どう見てもソ連のイメージそのものである。
毛皮の帽子に毛皮のコート、まるでマンガみたいだ、そう思うと、何だか可笑しくなってきた。


やがてエコノミー・クラスの乗客が呼ばれて、彼らはお土産をいっぱい持って飛行機の中に吸い込まれていった。

今日はビジネス・クラスだから、この後呼ばれたら飛行機にゆっくり入ればいい。(実はそういうのに慣れていないのだが…)

周りには西側のジャーナリストと思われる人たちが、同じように残っている。
この人達は、見慣れた西側の人の服装をしている。


やがてビジネス・クラスの呼び出しがあり、飛行機の中へ……入ってみて驚いた。

ビジネス・クラスとは名ばかりで、椅子に色の違うカバーを掛けて分けているだけだ。

それだけならまだしも、エコノミー・クラスの席は例の毛皮の人たちで埋り、
頭上にある手荷物入れは、ビジネス・クラスの椅子の上まで、彼らのお土産品でいっぱいにされており、自分の荷物を置くところはとっくに無くなっているではないか!

そんな馬鹿な…思わず彼らの顔を見ると、フン、早い者勝ちさ、という感じで横を向く。
遅く来たのが悪いんだ、とでも言いたげだ。

こりゃあ、やられた。

これが彼らのルールなのか?

どうものんびりしていると割を食う感じだ。


僕は仕方なく自分の荷物をひざに抱えて椅子に座った。

かわいそうなのは先ほどのジャーナリスト達で、僕の隣になった記者は、山のような荷物をかかえたまま、椅子にはまりこむように座っている。
「まったく…」とうんざりしたような顔で。

普通なら文句を言ってしかるべきだが、旅慣れた彼らがあえて何も言わないのを見ていると、言っても無駄なのか、あるいは言うと何か厄介なことに巻き込まれるのか。


やがて飛行機は飛び立ち、モスクワまでの数時間、私たちはまるでお中元の箱の中身みたいに、窮屈な恰好で我慢して座らされるはめになった。

とんだビジネス・クラスである。



モスクワに到着すると、とにかく建物が薄暗いのに驚かされる。
空港は軍事施設なので、光の量を落とし、わざと薄暗くしてあるのだ。

飛行機から降りた毛皮の人たちは、ぞろぞろと出口へ向かう。

僕は本当は乗り換えなので、出口に向かってはいけないのだが、どうも乗り換えは僕ひとりだったらしく、廊下の電気も出口への道以外は消してあって、下手に行列から離れられない。

下手に行列から離れて暗い方に行ったら、どんな誤解を受けるかわからない。

仕方なく、毛皮の人たちといっしょに歩いていく。

通関のカウンターで行列に並び、自分の順番が来た時、乗り換えであることを職員に告げると、その職員が誰かを大声で呼んだ。

周りの毛皮の人たちが、僕のことをジロジロ見る。

すると、銃を持った衛兵が二人やってきて、僕にカラシニコフをつきつけた。

えらいことになってきたぞ、と思っていると、銃をつきつけたまま、こっちへ来いと言われて連れて行かれた。
連れて行くと言うより連行するという感じだ。

振り向くと2丁のカラシニコフの銃口。
つい両手を挙げたくなる。

彼らは真っ暗な廊下の電気を次々とつけながら、僕を別の場所に連れて行く。

連れて行かれた場所は、乗り換え乗客用の取調室みたいな所で、取調官のいる広い部屋に通される。

取調官は、ぶっきらぼうに僕のパスポートを取り上げると、たっぷり時間をかけてパスポートの写真と僕の顔を見比べる。
そして、じっとりとした目つきで僕の顔を見つめる。

普通西側の国の空港だったら「行っていいよ」の一言で済むところだ。
こういう無言の時間を与えると、何か隠している人は、その時間に耐え切れなくなり、不自然な行動をとるものである。
それを待っているのだ。
しかし僕には何もやましい所はないので、平然として彼の次の行動を待ってやる。

その若い男は、僕の胸ポケットを指し、ロシア語で何か言う。

どうやら煙草は持っていないか?と聞いているようだ。

僕は煙草を吸わないので、持っているわけは無い。

こいつ、どうやら旅行者から煙草を巻き上げるのが楽しみらしい。

僕は「ノー、ノー、持っていないよ」と言って残念そうな男の顔を後に、その部屋を出た。


次の薄暗い部屋でひとり座って乗り換えの手続きが終わるのを待つ。
部屋には3人のロシア人がいた。

ひとりは、若い男でただ突っ立ているだけのような奴。

もうひとりは18歳くらいの若い女性で、まだ子供みたいな印象を与える。
肌の色が透き通るように白くて、まるで若い頃のナスターシャ・キンスキーのように綺麗だった。

最後のひとりは、怖い顔をした50歳くらいのオバサンだった。
にこりともしない。
まるで鉄の女だ。

僕は、なぜか「ブリギッテ」という名前を思い出した。
多分007か何かに出てきたロシア人の女スパイの名前だろう。
このオバサンはブリギッテという名前がドンピシャリだった。

三人ともくすんだ色の制服を着ている。

この三人ときたら、僕が目の前にいるというのに、ぜんぜん意に介せずといった感じだった。

おばさんが何かナスターシャに意地悪な命令をしているらしい。

ナスターシャはモニターの前で、かわいらしくすねて見せ、何か悪態をついているのだが、ブリギッテは怖い顔をして、にこりともせずに黙って見ている。

もう一人の男は無表情で、ただ無言で立っているだけだ。

普通西側では、こういう内情を見せるような事はさけるのだが、彼らは気にもしない。
まるで三文芝居を見るようだった。

やがて手続きが終わり、僕はその部屋から開放された。
彼らの芝居の続きを見られないのは、ちょっと惜しかったが。


開放されたと言っても、薄暗くて広いモスクワの空港の小さなベンチに座って、ひとり本を読んで飛行機を待つだけだった。

成田を出る時に購入したトム・クランシーの本で、モスクワを舞台にした脱出物語だった。

本の出来はイマイチだったのだが、何しろ実際にモスクワの空港で読んでいるのだから、雰囲気抜群、リアリティが凄い。
本を読む設定としては、贅沢の極みだろう。
何度か背筋が寒くなるような思いをした。

読み終わったら、さっきの若い男にあげようかと思ったほどだ。
あの男、こんな本を持っているとわかったら銃殺だろうか。


ふと、あることに気が付いた。
僕の手持ちのカバンの中に録音機とマイクが入っている。

僕は外国に行くと、雑踏などの町の音を録音するのが趣味で、いつもカバンに録音機をしのばせていたのだ。

これはみつかったらヤバイ。
あらぬ疑いをかけられるのは間違い無い。

いや、まじめな話、トイレで録音機を捨ててしまおうかと思ったほどだ。

でも捨てているところを見られたら一巻の終わりである。
映画の「ファイアーフォックス」を思い出した。
トイレでKGBと闘うことになったら大変だ。

手荷物検査が無い事を祈るばかりである。


気をまぎらすために、買い物をしようと売店に行ってみた。
売店もやけに薄暗い。
あわてて出てきたので、お土産はおろか、自分にも何も買っていなかった。

とは言っても大した物はない。
一通り見たけれど、欲しい物は何も無かった。

売店の棚にウサギの毛皮で出来た黒い帽子が並んでいる。
メーテルがかぶっているみたいなやつだ。

それを見た時に、さっきの飛行機の中の毛皮を着た人達を思い出した。
考えてみたらこれほどソ連を象徴する物はないだろう。
値段もたしか1個5000円くらいと手頃だ。

売店の女性を呼んで取ってもらう。
女性は美しくスタイルもいいが、無表情な人で、言われた事しかやらない感じ。

首都モスクワの空港の売店で働けて、西側の人間の相手ができるなんて、それなりの教育を受けた地位の高い女性であろうに、どこかツンケンしている。

何よりも当時のソ連の人たちには、お客に物を売ろうという意思が感じられない。
資本主義ではないのだから、当たり前だが。


彼女の取ってくれた帽子を被ってみる。



・・・・頭に入らない。

次のを取ってもらう。
やはり入らない。

見るとサイズが57と書いてある。
次から次と取ってもらうが、一向に入らない。
ロシアの人は、頭が小さいのか?

サイズが58と書いてあるのもあった。
しかし、やはり僕の頭には入らない。
僕の頭がでかいのだろうか?

結局、棚の帽子はすべて頭に入らなかった。


店員の女性は、相変わらず無表情でその様子を見ていたが、やがて僕に「ついて来て」と言って、店の奥の扉から裏に出ていってしまった。
僕はその後を追う。

立ち入り禁止区域のような殺風景な廊下を進んで、その先の小さな部屋に案内された。
一体僕をどうしようと言うのだろうか。

部屋に入ってみて驚いた。
壁一面が棚になっていて、例のウサギの帽子が数百個陳列してあるではないか。

さあ、この中から選べと言う。
表情はロボットみたいに変化しないが、案外良い人なのかも。


僕は次から次へと帽子を頭にかぶせてみる。
しかしどれも小さい。
本当にロシア人は頭が小さいのだなと思う。
女性は黙ってそれを見ている。

やがて、ひとつだけ僕の頭にすっぽり入る帽子に行き当たった。

「ああ、これならかぶれる」

そう言って帽子の表示を見てみると、サイズは57になっている。
あれ?でもこの帽子、57って書いてあるよ


僕がそう言うと、女性は、表情ひとつ変えずにこう答えた。









57と書いてあることが、重要なのではない。あなたの頭に入ることが重要なのだ。



……たしかにその通りなんですけどね。





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モスクワの空港にて
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