2005年6月29日(水)
紫外線



以前よりチンタラと進めていたUV写真の撮影ですが、少し前進しました(笑)

レンズはもうUVニッコール以外にないのですが、その他にもカメラの選択、フィルターの選択、照明の選択、露出の選択、加工ソフトの選択といった様々な要因がからんでいることがわかってきました。

また被写体の選択も重要です。
Mrs.COLKIDに花屋さんで花をいくつか買ってきてもらい、試し撮りしたところ、最初に撮ったのが小さなひまわりだったのですが、これがたまたま紫外線撮影に非常に適した花で、ネクターガイドがはっきりと写りました。
しかし買ってきた他の花はすべて駄目でした。
撮影に適した花を調べたところ、ひまわりや菜の花、タンポポ、水仙などで、どうも黄色い花が多いこともわかってきました。

引き続き研究を進めていきます。


2005年6月20(月)
明治35年9月28日


この日記やブログの「プチ日記」の中で、明治35年に日光を襲った大災害について、僕は何度となく触れてきました。
日光に関するサイトや本を読んでいても、明治35年にこの地を襲った悲劇に関して、時折触れられているのに気付きます。
それほど日光にとって大きな出来事だったのです。

それについては、いつかこの日記で書こうと思っていました。
しかしそう考えているうちに、世の中では大きな災害が頻発するようになり、今や災害そのものが珍しいものではなくなってしまい、書く機会を失ってしまいました。
今日はその明治35年の大災害について書いてみましょう。


もちろんその時代に生まれていたわけではありませんから、本の受け売りです。
もっとも詳しい資料となるのは、「日光避暑地物語」(福田和美著・平凡社)です。
この本はたいへんな力作なので、避暑地としての日光の歴史に興味のある方には、一読されることをおすすめします。


中禅寺湖の船上から望遠レンズで撮影した男体山の頂上。
今でも登山するのにかなり危険な山のひとつだという。



日光は非常にダイナミックな土地です。
全体が急な斜面で構成されているので、川の水は勢いよく流れ落ちていきます。
その川がせき止められれば湖となり、溢れた水が次の川を作り、それが断崖から落ちれば滝となります。

奥日光の湯ノ湖の水は、湯滝で勢いよく落下した後、戦場ヶ原の横を通って竜頭の滝を通り、中禅寺湖に注ぎ込みます。
そこから溢れた水は華厳ノ滝で大きく落下して、さらにいくつかの滝を通った後、日光市内へと続いていきます。
立体的で単純な構造は、砂場に作った模型にじょうごで水を注ぎかけたようにも見えます。

世界遺産の中でも日光という場所は、たとえば東照宮の陽明門のように人造物の極地とでも言うべき建造物と、厳しい自然環境の両方がそろっているという、世界でも稀にみる場所なのだそうです。
その地形は過去に起きた自然の大きな変動によって形作られたものであり、その危うい状態は現在も続いています。

そして近代になって起きた大きな変動のひとつが、明治35年の大災害だったのです。




それではその日に起きた出来事を順に追ってみましょう。

明治35年9月28日。
この日は一日のうちにふたつの台風が日本列島を直撃するという極めて特殊な気象状況で、その被害は全国で死傷者・行方不明者の数が970人にのぼったといいます。
そのうちのひとつの台風が、足尾から日光にかけて大きな被害をもたらしました。

あまりに激しい風雨は、雨を見慣れた日光の人々にも尋常でないものを感じさせていました。
まず最初に起きた事故は、奥日光の湯元温泉のさらに上の山中で起きた鉄砲水で、それは炭焼小屋と数人の作業員を飲み込みました。


下りの第一いろは坂の途中から見える般若滝。
以前はこの滝の景観をのぞみながら険しい山道を登り奥日光へと向かうルート(中善寺坂)があった。



午前9時30分、連鎖する大災害の発端となる大きな事故が発生しました。
男体山7合目付近から、幅約20メートル、長さ約2キロに渡る土石流が発生、中善寺の町を直撃したのです。
これにより多くの家々が、湖岸まで押し出されてしまいました。

土石流は麓に建つ奥日光二荒山神社の拝殿を傾け、妙見堂と立木観音堂、鐘楼をなぎ倒しました。
(勝道上人自ら彫られたと言われる立木観音は、後になって湖面に浮かび上がり、現在は対岸の少し離れた場所に祭られています)
湖畔にあった小学校分教場の真新しい校舎も押し流され、赴任したばかりの教師一家は土砂に飲み込まれました。

そして驚くべきことに土石流が勢いよく湖に流れ込んだ時、湖に高さ3メートルの津波が発生したのです。
津波は湖岸の旅館や茶屋に被害をもたらし、土石流に押し出されてきた家や人々を湖の中へと流し去ってしまいました。




津波の勢いは衰えず、中禅寺湖から大尻川を通り、何とその後の華厳ノ滝を乗り越えていきました。
大量の泥水は、狭い渓谷を凄まじい勢いで流れ落ち、下の日光の町に迫ります。
大谷川は川底をえぐられ、両岸は削られて絶壁のようになってしまいました。

中善寺坂途中の名所であった般若滝、方等ノ滝は土砂崩れで姿を変えてしまいました。(上の写真参照)

また観光スポットとして人気の高かった裏見の滝も、水の落ち口が崩れ落ち、滝の裏側に行くことが出来なくなってしまいました。
(現在の裏見の滝は写真左を参照。破壊以前の滝に関しては、「俳聖・松尾芭蕉・みちのくの足跡」というサイトの中の「明治・昭和初期の日光資料写真と絵図」というページに資料写真あり)



日光市内より山の方向に向かうと裏見の滝がある。
以前は人気スポットだったが、土石流で破壊され、滝の落ち口が数メートル後退してしまった。
今では滝の裏側に行くのは極めて危険。




勢いの衰えない大量の泥水は、途中の多くの家や茶店に壊滅的な被害を与えながら、日光の町に襲いかかりました。
大谷川の含満ヶ淵付近では川底が30メートルも掘り下げられて、両岸も削り取られ、今までと違う景観になってしまいました。
このそばにある並び地蔵(「プチ日記」の5月17日を参照)は大半が泥流に飲み込まれ、茶屋も全滅しました。

水はついに東照宮前の神橋に達し、聖なる橋を瞬く間に消し去ってしまいました。
(神橋は後に8キロ下流で漂着しているのを発見されました)
ここで川幅が狭くなっていることもあり、溢れ出た水が付近の家を浸食しました。
危険を感じた町の職員は、役場の重要書類を、金谷ホテルへと続く坂の途中にある小西旅館に避難させました。
神橋が流失したのは、役場の職員が半鐘を鳴らしてからわずか30分後だったといいます。


勾配のきつい土地ということもあり、水は午後11時頃になると急速に引きましたが、その勢いで下流に流れていった水は、下の今市などに被害をもたらしました。
全ての橋が流されたことで、日光の町は完全に二つに分断され、観光客も足止めをくらい、2日後に仮設橋ができるまでは、帰ることができませんでした。
それどころか偶然生き残った電話線がみつかるまでは、対岸との通信も弓矢などに文をくくりつけて行われていたといいます。

結局日光町での死傷者・行方不明者は46名にのぼりました。
観光地日光の景観は、この日を境に、それ以前と以降では、大きく様相を変えることになりました。


もっとも被害が大きかった含満ヶ淵。
川底から露出した岩が不気味な雰囲気をかもし出す。
この辺りは日光でももっとも霊気を感じさせる特殊な場所だ。


この大暴風雨を実際に体験した記憶を持っている方は、恐らくもうこの世にはいないでしょう。
しかし日光に住んでいる知人に聞いてみたところ、その時の話は家族の中で語り継がれているといいます。
その方の家は、大谷川に通じる下り坂の途中で旅館を営んでいたのだそうですが、今でも庭を70cmくらい掘ると、当時の名残りの砂地が出てくるそうです。


2005年6月12(日)
ANTICA OSTERIA DEL PONTE


・・・という名前のイタリア料理のレストレンに行きました(笑)
丸ビルの36階です。
母親が誕生日なので、予約しておいて招待したのです。
スーツを着なければ駄目かと思っていたら、ランチならカジュアルでいいというので、お言葉に甘えてGパンで行きました(笑)




有名なレストランなので、味については書くまでもないでしょう。
丸ビルが出来た時にテレビで何度も紹介されていました。
お店の方も大変手際よく申し分ありませんでした。
母も大満足でした。

イタリアンということもあってか、お店は意外に堅苦しくなく気さくな雰囲気で、ロウソクを立てたケーキを母のために用意してくれ、記念に写真まで撮ってくれました。
誕生日ということで窓際の最高のテーブルをとってくれ、36階から東京を一望する目も眩むような凄い景色を眺めながら食べました。

実は隣のテーブルで、最近話題になっているソフ○バンクの北○CEOが外国のお客さんと食事をとられていました。
英語の会話でしたが、氏が何度もライ○ドアのことを話すので、気になって仕方ありませんでした(笑)
テレビで見たときよりずっと若々しい方でした。


2005年6月5(日)
ミリオンダラー・ベイビー


先月は1回しか日記が書けませんでした。
ブログと両立するのはやっぱり難しいですね。

今日は待望の「ミリオンダラー・ベイビー」を見てきました。
ご存知のように、僕はイーストウッドの大ファンですから、今年一番見たい映画だったのですが、先週は法事があって行けなかったのです。

場所は有楽町のピカデリー1。
アカデミー賞の効果か、あの大きい映画館がほぼ満席でした。
朝一番の回なのに、階段の下まで行列になっていました。




実は父親が亡くなってから映画を見る気が起きず、しばらく映画館には行きませんでした。
そろそろ傷も癒えてきたので、最初に見る映画はイーストウッド映画にしたいと思っていました。
イーストウッドは僕の父親と同年代なので、どこか自分の父親に近いイメージを持っています。

生前父親とイーストウッドの作品を見ている時、突然父が「この男の顔には死相が出ている」と言ったことがあります。
でもそう言った父親の方が先にあの世に行ってしまいました。


さて、映画ですが、僕の第一印象は、「いつもと変わらないイーストウッドの映画」というものです。
イーストウッドは最近評価が高いですが、長くイーストウッド作品を見てきたものにとっては、彼は昔から何も変わっていません。
自ら監督するようになってから、彼は一貫して運命に翻弄されるアンチヒーローを淡々と描いてきました。
むしろ変わったのは周りを取り巻く環境の方なのかもしれません。
彼が急にハリウッドを代表する巨匠のように扱われるようになったのは、彼がヒーローとして出演する映画で育った世代が、映画界を代表する中心的存在になってきたからでしょう。

この映画でのイーストウッドも、例によって、若い頃彼が演じていた不死身のヒーローたちを真っ向から否定するような、決して成功したとは言えない年老いた男です。
運命に翻弄され、必死の努力で夢を掴んでも、どこか割り切れない切なさの残るラストを迎える・・・そういう非常にリアルな物語です。
イーストウッドは、映画によって作り上げられた「非現実的なヒーロー」という自分のイメージを否定する作品を、執拗なまでに作り続けますが、それはハリウッド映画が世界中の人に売りつけてきた夢の世界を、根底から覆そうとしているかにも見えます。

彼は大変な苦労人なので、現実の厳しさから目をそむけるのが嫌なのでしょう。
そして自分の人生で何らかの共通した体験を持っている人は、彼の提示した世界にたいへんな共感を示します。
今日も映画館から出てきたら目に涙をためている年配の方が何人かいました。

キャストのヒラリー・スワンクとモーガン・フリーマンは言うことなし。
問題はイーストウッドですが、彼はそのスマートな風貌から、何でも華麗にやりこなしてしまう男、というイメージ(実際にそうらしいですが)を相手に与えるので、こういう寂しげな男の役は似合わない面があります。
彼が演じたいと思っている男は、往々にして彼のイメージからするとミスキャストになりがちなのです。
映像は例によって一発撮り重視のイーストウッド流で、構図等の完成度は低いですが、流れが自然で妙なリアリティを持っています。

面白いのは映画館で買ったパンフレットが、ほとんどイーストウッド賛歌になっていることで、何人かの人が「私のイーストウッド」を切々と語っていることです。
僕の世代では、マカロニ時代やハリー・キャラハンの頃のイーストウッドはまさに神様でしたし、その後ではたとえば「ファイヤーフォックス」でのミッチェル・ガントなんかもスーパーヒーローでした。
やはり「僕のイーストウッド」を持っているわけです(笑)

その本の中で、大林宣彦監督の書かれているジョン・ウェインとイーストウッドの因縁についてのレビューが興味深かったです。
この二人は対照的ですが、どちらもアメリカを代表する存在です。
ひとりは「アメリカの正義」を疑う者のいない時代の象徴であり、もうひとりは作り上げられた幻想であることがばれた後の、退廃的な中から再構築された新しいアメリカの象徴なのです。
ジョン・ウェインはイーストウッドに批判的であったと聞きます。
「荒野のストレンジャー」の時は、わざわざイーストウッドに手紙を書いて違和感を述べたそうです。

この映画「ミリオンダラー・ベイビー」ですが、最近のイーストウッド映画に共通した傾向で、見終わった後しばらく経ってから、いくつかのシーンがじわりと胸に浮かぶタイプの映画です。
本当はもう何日かおいてから、この文章を書いた方が良かったかもしれません。